憐みと希望について
悲しい憐みは決して崇高でも、美しくも有用でもありません。
人の不幸に対して、冷酷で何も感じないのがいいというのではありませんが。
今回は、フランスの哲学者、アランの考えをご紹介します。
悲しさと憐みは人類が持っている災いの一種で、不幸をさらに沈ませてしまいます。
本当に不幸で、同情するのが当然、みたいなこともいっぱいあるけどね。
憐みは他者だけでなく、「自己憐憫」という言葉があるように、自分自身に向けられることも多いです。
「私ってかわいそう」
ほとんど一年中、そう思ってる人も多いですよね?
そんな奴、社会で生きていけないんじゃないか?
「それでは優しさや思いやりの無い冷たい人間ではないか?」
「自分はこんなにかわいそうなのに、それはヒドイ」
そう思われるかもしれません。
しかし、憐みは何ももたらさないのです。
じゃあ、どうすればいいのさ?
憐れむのではなく、「希望する」のです。
悲しみに打ちひしがれている人には、明るい友情を示した上で、
「あなたが本当は強い人であることを私は知っている。」
「私の為にあなたの笑顔を見せて欲しい」、
自分がかわいそうだと思ったら、
「自分はこんなものじゃない。まだまだやれる。本当の自分が見たい」
と希望してみましょう。
希望の生の力だけが、明るい未来に繋がります。
悲しみや憐みでなく、生の希望を撒きましょう。
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